日本のガラス 製造とガラスの歴史などの、ガラスの文化の新しい歴史解釈が発見されました。日本で最も古いガラスは、紀元前3から1世紀の弥生と考えられていて、小さなガラスやビーズでした。発見されたのは弥生時代ですが、これが国内で作られた物なのか、あるいは海外から輸入された物なのかは今のところ定かでは無いです。

その後紀元前1から紀元後3世紀の弥生中期から後期には、日本全国各地で丸玉や勾玉や管玉などの形のガラス製の玉が出回っていました。こちらの玉も日本国内で生産されたか、あるいは輸入されて海外から持ち込まれたか分かっていません。弥生後期の遺跡から、ガラス製品を作るための炉跡と思われるものが発見されましたが、約2000年前のこの頃から加工され始めたと考えられています。但しこのころガラス玉の製造は、高度な加工技術である溶融と言う技術があったのかは定かではないです。
ガラスの文化の最盛期は、期限後7世紀から8世紀にかけての飛鳥や奈良で、さらに多くの製品が発見されました。この頃はまだ加工が難しく、主に上流階級に使われていました。ガラスの歴史で有名な正倉院に納められている数々の製品は、当時の文化的な状況を調べるのに重要なものとなっています。この頃になると単なる玉型ではなく器なども使われていましたが、この当時はまだ器を加工する技術が国内には無かったので輸入されたものです。器に加工する技術はありませんでしたが、魚の形を模したものさし形の釣り具などは加工されていました。正倉院に所蔵されている古文書には、原料や燃料などが記された製造方法が記されていて、玉形の製品は大量に下降されていた事が分かります。
8世紀から12世紀の平安には、遺品が殆ど発見されなくて空白時代とされてます。但しこの当時の文学作品の源氏物語や枕草子の作中で、杯や壷などが登場しているので、貴族社会ではごく当たり前のように使われていたようです。但し玉形の製品に関して、技術として確立されていたので作られていたのかもしれませんが、この時代に製造された製品はほとんど見つかっていないため空白時代と言われてます。
戦国と言われる室町後期の時代には、フランシスコザビエルが来日して、玉や器だけでなく鏡やメガネなどの新しい加工品がキリスト教の布教といっしょに入ってきました。戦国以降は、キリスト教の布教以外にも海外との交流が盛んになって、奥のガラスの製品が輸入されました。輸入された海外のガラスの製品の影響を受けて、一度空白になっていた製造や加工がまた行われるようになって、日本でも盛んにガラス製品が作られるようになりました。